このブログをはじめた時から、「個人的なことは一切書くことはやめよう」と決めていました。
個人的な日記としてではなく、少しでも会社のことを知っていただけるためだけのブログにしたかったからです。
しかし、震災から15年の日にはじめて少しだけ個人的なことを書かせていただきます。
実は私は震災を経験していません。
中学までは西宮で暮らしましたが、高校から関東の学校に進学し、ひとり暮らしをしていました。
震災当時は大学3年生で、神奈川県の藤沢市(江ノ島近く)に住んでいました。
ヨット部という、年間200日以上合宿をしている特殊な部活に入っていた私は、貴重なシーズンオフを満喫している真っ最中。
震災の前の日も夜中3時か4時まで遊んでいたため、震災の起きた時間は熟睡中でした。
朝友人たちから電話を受け、それから慌てて家に連絡を取り続け、ようやく電話が通じたのは昼過ぎ。
その時は、
「みんな無事だから心配するな。余震が続いているのでこっちには帰って来るな。」とだけ言われました。
2日後だったと思います。ようやく電話も通じやすくなってきて、何度目かの電話で少し冷静になってきた私は、当時の社長だった父に会社の状況を尋ねました。すると父は
「会社はグチャグチャだ。店も商品もすべて使い物にならない。でもお店の人たちはみんな無事だ。金はまたみんなで稼げばいいだけのことだから何の心配もしなくていい。ジタバタしても始まらないから今は割れなかった酒を集めて飲んでいるところだ。ワハハハ」と高らかに笑っていました。
震災後、富士では歩いている人たちの休息場所となれるように商品の椅子たちを国道にすべて並べ、また祖父のいる和歌山からはミカンを大量に送ってもらい、水分補給しながら自由に休んでいただいたそうです。。
(長い間交通機関がマヒしていたので、大阪⇔神戸間は国道沿いを大人から子供までたくさんの人が歩いて移動していました。)
店の前には母が心を込めて復興を願い、「たおやかに 美しい 夙川」と書いた貼り紙を貼りました。
また、夜も活気が少しでも出ればと、生き残った照明をすべて付け明々と店を照らしていました。
どれも道を歩く人たちからとても喜ばれたそうです。
あの震災が起こるまで、私の中には「実家に帰って跡を継ごう」という気持ちは全くありませんでした。
そんなに強い理由は無かったけれど、何となく家業を継ぐということに対して、「自分の力じゃない」「かっこ悪い」という抵抗がありました。
でも震災、というかそれをを乗り越えようとしている父や母の姿を見ていたら、『なんとなく継ぎたくない』という自分の抵抗がものすごく小さいものに思えてきました。
そんなちっぽけなことよりも両親が常に前を向いて守ろうとしている『会社』という存在をより長く続けていくことの方が全然大きなことで、それを実行することが自分の使命であると感じるようになりました。
(ちなみに毎日新聞の記事で私が2代目だと紹介されていますが本当は私で3代目になります)
震災が無くても、もしかしたら遅かれ早かれ継いでいたのかもしれません。
しかし、あの経験がなければ、「強い使命感」は生まれなかったと思います。
今は『住まう』という、大きな題材をもっともっと深く掘り下げ、ずっとこれからも世間から必要とされるような老舗企業を作っていくことが私の使命だと思っています。
今年で創業50周年を迎えますが、当面は『創業100年』にすることが私の目標です。
長々と書いてしまいましたが、震災から15年という節目に再度気持ちを引き締めるべく書かせていただきました。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。